2020年7月24日、本来であれば東京オリンピックが開幕する日だったが、全世界で猛威を奮うコロナウイルスの影響で開催延期となった。
NPO法人Auniversity(エイユニバーシティー、以後エーユニ)では、ステイホーム期間中に私たちが目指す世界やビジョンについて再考し、全世界的な取り組みが広まっているSDGs(持続可能な開発目標)について考える内部勉強会などを行っている。
本日「スポーツの日」にちなんで、現在大学院でスポーツ分野の研究をしている方をお呼びし「スポーツ×教育」の勉強会を開催した。
◆スポーツ教育の発祥
現在身近にあるスポーツは近代の19世紀イギリスから発祥した。当時はイギリスの富裕階級の私立学校(パブリックスクール)に産業革命によって貴族化した地主の子供たちも参入するようになっていた。地主の子供たちは暴力的なフットボールをするようになり、学校側はスポーツを導入して暴力を抑制しようとした。これがスポーツが教育的手段として用いられるようになったきっかけであった。
◆日本のスポーツ教育
日本はアメリカと日米和親条約を締結し、明治維新が起こったことで殖産工業、徴兵令、学制公布などの新しい政策を打ち出した。明治新政府が目指した新しい国家は「富国強兵」という経済発展と軍事力増強を目指した国家だった。軍事力強化のために、当時の学校に「体術」(現在の体育の原型)や陳列運動などを行う兵式体操が組み込まれるようになった。さらに、体育の教師を育成する「体操伝習所」を開設し、アメリカから来た学者が日本の学校体育の指導者育成に尽力した。
つまり、日本の学校の体育という概念は、健康維持のための保険的な目的と兵力強化のための軍事的な目的があったのである。
◆近代以降のスポーツ導入
19世紀の日本で「sport」という単語の訳には、「遊び」という意味が含まれており、当時日本に滞在していた在留外国人によって学校の中で行われる軍事的な体操とは異なる「遊び」としてのスポーツが日本に普及したのである。
日本の運動会の源流を辿ると、高飛びや競歩などの種目がある一方て発火演習や銃剣術を行う等といった軍事的に秩序化を図る意味合いが強かった。
また、近代以降に日本で初めて大学運動部が組織されたが、スポーツを行うことができたのは大学進学し、運動部に所属するごく少数のエリートのみだった。
◆スポーツと体育の違い
その後、体育〉運動〉スポーツという関係構造が確立し、体育という概念にスポーツが組み込まれるようになった。「体育」と「スポーツ」の違いが近年では明確に区別されるようになり、本日「スポーツの日」も元々国民の祝日であった「体育の日」の意味を正しくするために名称が変更されたのだ。
スポーツとは人類が創造して来た文化の総体で実態概念である一方、体育とは人間形成という教育目標を達成するために指導者が生徒を対象にスポーツを用いて働きかける機能概念である、ということだ。
現代のスポーツでは、八百長、体罰、ドーピングといった問題が指摘されることが多々あるが、その根源にあるのは近代資本主義の精神であり、オリンピック標語にもある「より速く、より高く、より強く」という現在スポーツの倫理があると言う。この考え方が行き過ぎた結果、ドーピングや体罰などの勝利至上主義に繋がっていると考えられている。
興味深いことに、日本のドーピング件数は世界的に見てもかなり少ないことだ。その原因として考えられるのは、日本人は体育という科目を通してスポーツによって人間形成を成すという文化観が根付いていることだ。日本はスポーツを教育の一部として行ってきた、これが海外との大きな違いだと言う。
日本の体育の持つ人間形成の視点が、世界のスポーツの新しい在り方に融合させる必要があるのではないか、ということを学んだ。
◆エーユニと「スポーツ×教育」
本日の勉強会を通して、スポーツと体育のそれぞの持つ意味を歴史を通して学ぶことによって、それぞれの良さを認識するようになった。
「生活様式」としてのスポーツをもっと理解することによって、誰もがいつでも、どこでも気軽に参加できる生涯スポーツを「楽しむ」ことが日本でもより浸透していけたら良いと考える機会となった。
そして、日本から生まれた「教育」としての体育による人間形成は、日本の財産であることを実感し、世界のスポーツの中により「教育」の要素が取り入れられ浸透していくこと、また日本でも部活動が以前より盛んでなくなってしまっている今、スポーツにおける教育を絶対に失うことなく、新たなる体系と体制が作られていくことの必要性を一層感じるようになった。
SDGsの目標 4「すべての人々に包摂的かつ公平で質の高い教育を提供し、生涯学習の機会を促進する」の実現に向けて、エーユニは若い人からお年寄りまで何歳になっても楽しく学びのあるスポーツの場を提供していきたい。